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2014年6月20日 (金)

日本と西洋の自然観と宗教観について

珍しくお堅いタイトルで。

先日、仕事先での講演会を聴きに行ってきました。

別件の仕事があったので途中からだったのですが、講師は元文化庁長官の近藤誠一さん。
昨年、富士山が世界遺産登録した際、ICOMOS(世界遺産にふさわしいか事前審査する人たちの集団)から除外勧告を受けていた三保の松原を、ロビー活動で逆転登録に導いた方で、ご存知の方も多いと思います。

講演の中で、日本人の自然観が西洋(特にキリスト教世界)とは異なっており、それを理解してもらうことが日本の文化資産を世界遺産に引き上げることだと。

日本人の自然に対する立場は対等、もしくは自然のほうがやや上、という考え方に対して、西洋では人間が一番上、という考え方があります。

この差異は宗教観(およびそれに類似する感覚)にもつながります。

西洋世界、特にアメリカは無神論者を排斥する傾向が強いという話を聞いたことがあります。西洋では信仰を持つことがひとつの人間としてのステイタスであり、信仰を持たない人間は人間として一段下に見られる、という傾向です。

グローバル化した世界、と言われて久しいですが、西洋における信仰をもつこと=創造主である神の存在を信じることが未だにその世界での正義であり、イスラム世界の過激派ほど表だってはいませんが、西洋人の拠り所として千年以上受け継がれていることは間違いありません。

実際わたしもワーホリ時代、真面目に信仰を語る西洋的考え方に触れたこともあり、日本人の私たちが思っている以上に「神の存在」は根付いているものであると感じました。

それに対して日本人の宗教観は自然観とともに、人間も自然の一部であり、八百万の神がそれぞれの人格を持ち、それに生かされていることに感謝し、あらゆる神を無意識に敬っています。
聖徳太子の時代に仏教を受け入れ、憲法にそれを掲げても、古来の自然崇拝の宗教概念は残り、平安期頃には本地垂迹説で仏教と神道を両立させています。

西洋では従来の信仰は淘汰され、キリスト教(あるいはそれの派性宗教)が絶対的な権力を握っていきます。

宗教や自然観における日本の「共存」に対して、乱暴に言えば西洋は排他して絶対的な権威をたてる「対立」観念が存在しています。

これはよく農耕民族と狩猟民族の違い、と言われていますが、この他に日本という国の地理的条件が大きく関係しているのではないでしょうか。

単一民族が暮らす極東の島国で、地震や台風などの自然災害に常に晒されている土地で暮らすには自然との「畏怖をもった共存」が必要でした。ありのままに自然の脅威を受け入れたのです。
自然と共に生きることができれば、そこに絶対的な創造主は必要ありません。政治制度でいうところの「共和制」の思想が形成されていったのです。

これに対して多民族が住み、自然の脅威が少ない広大な土地で異民族間の戦いを繰り返す西洋社会では、人間の絶対性=人間の権威を高めることが必要でした。それが中央集権的な「支配」の思想につながったのではないでしょうか。そして絶対的な権威の象徴、創造主である神の存在を唱え、「人間は神が創った特別な存在」であることが人間の正当性にお墨付きをあたえ、人間は自然を支配するべきもの、と考えるに至ったのではないでしょうか。

日本人は宗教心が薄い、といわれていますが、実は全くの逆です。
先祖から受け継がれている自然との共存という思想が、日本人の信仰であるわけです。そしてそれは決して他の信仰を排他するものではありません。明治期に一時廃仏毀釈があったくらいです。

また、宗教の違いに端を発する戦争が多い世界史の中で、日本における宗教がらみの大きな戦争は、蘇我氏と物部氏の戦いくらいで(それも実質は権力争い)、ほとんどありませんでした。

これらを通して、日本の自然観・宗教観を世界に理解してもらうことが、世界平和につながるのではないのか、と昨今の情勢をみて思った次第です。

富士山はやはり、偉大です。日本の自然観の象徴であり、平和のシンボルかもしれません。

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